作成者別アーカイブ: hogawa

夏の終わり

作者 ヴぇいn

 世の中には魔法の言葉というものが存在する。
 ひとたびその言葉を耳にすれば、どれほどの強靭的な意志力を持ってしても抗うことはできない。
 つまり、この状況は不可避の事実であり、決して夢叶の理性が欲望に敗北した結果ではないのだ。
 綺麗に閉じきれないふすまと壁の間隙を縫うように、音を立てて風が廊下へ吹き抜ける。その音も窓枠に吊るされた風鈴の音色が上書きしてくれる。
「はあぁ、いい音ですぅ」
 風鈴がよほど気に入ったのか、夢叶の前に座る少女は、先ほどからずっとこの調子で長いまつ毛を伏せて聴き入っていた。
 腰の高さまで伸びた金色の髪が夜風に揺られるたび、その美貌を称えるように鈴の福音が奏でる。それほどまでにキャロル=ピールは美少女なのだ。少なくとも桜坂学園初等部五年一組の中では断トツに。
「キャロルって風鈴見るの初めてなの?」
 部屋の主である紺野夢叶は小首を傾げて問いかけた。
「はい、初めてです。これが風鈴というモノなのですねぇ~。素敵ですぅ」
 淡いブルーの瞳を輝かせキャロルが微笑む。夢叶は彼女の笑顔を見ながら、視線を下に動かし気づかれない程度にムスッと頬を膨らませた。
 今日はお泊り会という名目でキャロルが夢叶の家に遊びに来ていた。
 お嬢様ばかりが通う桜坂学園において、その日の食費すら満足に捻出できない貧しい家に夢叶が住んでいると、クラスメイトだけは絶対に知られたくない。ましてや家の敷居を跨ぐなど、もっての外である。
 キャロルが「遊びに行きたいですぅ」と発言した際も当然断った。
 ひょんなことがきっかけで、学校では唯一キャロルだけが夢叶の家の事情を知っているのだが、それでも気軽に「いいよ」と言うには抵抗がある。
 残念がるキャロルが、
「せっかく、グアムで見つけた美味しそうなスイーツを夢叶様と一緒に食べたかったのに」
 と小さく零したのを夢叶の鼓膜は逃さなかった。
「夢叶様の好きなエクレアも用意しましたのに……」
 肩を落とすキャロルに、夢叶は魔法にかかったようにYESの返事をしてしまっていた。
 こうして気がつけば、夏休みのグアム旅行のお土産とエクレアを持参したキャロルがやってくるという事態へ繋がってしまったのだった。
 しかし、そのことが直接夢叶の機嫌を損ねる原因となったわけではない。むしろそこまではよかったのだ。
 夢叶の機嫌が少し悪いのは、お泊りということでキャロルの着る「ねぐりじぇ」なるものを見てからだ。
 白い水玉模様が入った青地のキャミソールには、肩から肘にかけてシースルーの布が覆う。それに比べて、夢叶が着ているのは、どう考えてサイズが一回り大きい白無地のTシャツである。
 それもこれも、あいつのせいだ。
 夢叶が小一時間前に起こった出来事を思い出したことで、薄れかけていた怒りが再び湧き上がってきた。
 キャロルを交えて、父、兄、そして夢叶の4人で食卓を囲い、晩御飯の素麺を啜っていた時だ。夏だしお金ないし、素麺だよね!と夢叶としては恥ずかしさ全開の中、我慢して追加の茹でたおかわりを取りに台所へ移動した。
 席を経った数分の間に、アイドルオタクの兄とキャロルが国民的アイドルグループのSKZ88の話題で盛り上がりを見せていた。
 用意してきたおかわりの素麺をテーブルの中央に置こうとしたその瞬間、悲劇は起こった。
 テーブルの上に容器を置こうと屈んだ姿勢のタイミングで、興奮した兄がめんつゆがたっぷり入った器を振り上げたのだ。
 結果は火を見るより明らかで、頭からかぶっためんつゆは、気合を入れて用意した一張羅を台無しにした。
「はぁ……」
 夢叶はため息をついた。
 外国暮らしが長いキャロルにとって今まで風鈴を見る機会がなかったらしく、いたく気に入って出た「素敵」という言葉も、今の夢叶にとっては惨めな気持ちにさせてしまう。
「素敵なのはキャロルの着ている服だよ」
 ぽつりと口にした夢叶の本音がキャロルには聴こえなかったようで、風がそよぐたびに耳を傾けては笑顔を浮かべて風情を楽しんでいた。
 そんな情緒をあざ笑うように、壁を隔てた隣の部屋から突然流れ出した爆音が破壊した。
「え……と、SKZ88の曲ですねぇ?」
 目をぱちくりさせたキャロルが何が起こったかわからずと疑問を口にした。
「あ……」
 遂に、夢叶の怒りは頂点に達した。
「あのアイドルオタク! 今何時だと思ってるのよ!」
 こうして夢叶は兄のいる隣の部屋に怒鳴り込んだ。
 取り残されたキャロルは微かに聞こえる夢叶の声を壁越しに聞きながら笑みを浮かべ、
「怒った夢叶様も可愛いですぅ」
 とほんのり頬を染めた。

終わり